宮津の偉人伝

清水満之助 清水建設の基礎を作った宮津出身

日本を代表するスパーゼネコン清水建設の前身清水方の2代目として、宮津藩の普請奉行村田六郎の次男満之助が養子として迎えられました。

彼は、父が井伊直弼のブレーンであったことから横浜開港にともなう、一切の公的事業を受注し清水建設の基礎を築きました。

彼が活躍したのは、短期間です。明治4年初代喜助の娘婿として迎えられ共同経営者となりました。明治14年喜助がなくなると

実質経営者となり、明治20年に急逝するまで、宣教師について学んだ英語を生かし、築地ホテルの建設、経営、通訳として働き、

複式簿記を日本風タテ書きにあらため、日本で最初に賞与制度を採り入れ、能力給、成果給の先鞭をつけました。満之助の真骨頂は、

日本で初めて近代的設計者の重要性を認識し、明治19年辰野金吾が日本造家学会(現:日本建築学会)を設立するにあたり、賛助会員

第1号となり、設立総会には日本橋石町の店を提供しました。満之助は、臨終にあたり経営のすべてを渋沢栄一翁の指揮にあたるように

遺言しました。未亡人ムメは、幼い長男を名目上の当主とし、従兄弟原林之助を総支配人として、渋沢栄一翁を最高顧問に迎え

社業を発展させました。

宮津市京街道にある、曹洞宗智源寺には、満之助の実家の村田家の墓があります。今でも、毎年清水建設の重役の方がお参りに

くるそうです。

      曹洞宗智源寺        本堂は、宮津市内の寺社で最大規模です。      

参考資料:NTTグループのホームページより・最初の197回線から引用しました。

ポツダム宣言受諾の実務を行った宮津出身の外交官

8月15日、66回目の終戦の日がやってきました。この日の正午に行われた玉音放送により、国民に敗戦が知らされました。

前日、午前8時15分、昭和天皇は最高戦争指導会議と閣議の連合会議を招集し、ポツダム宣言の受諾が決められました。

終戦の詔書に署名され、各国務大臣の副署がそろったのは午後11時でした。外務省から連合国へ回答公電が、スイスとスウェーデン

大使館に発せられました。スウェーデン公使岡本李正は、スウェーデン政府を経由して、米国、英国、ソ連、中国政府に通告されました。

岡本李正は、宮津高校を卒業し東京帝国大学を経て、外務省、アメリカ局長、上海総領事、シンガポール総領事を歴任、昭和17年

スウェーデン公使となり、歴史的事実に関わりました。

戦後、オランダ大使を経て昭和31年退官。日蘭協会会長を務め昭和42年に生涯を閉じています。

海のシルクロードという言葉を定着させた宮津生まれの歴史家

三上次男は、明治40年宮津で生まれ、昭和7年に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業後、1年間の中国留学を経て、外務省文化事業部勤務。

昭和24年、東京帝国大学文学部の講師から教授となり、昭和42年退官して青山学院大学で教鞭をとるかたわら東宮家の東洋史教師を務めました。

晩年、日本ユネスコ国内委員会委員、出光美術館の理事を務めました。戦後に中近東、南アジア、エジプトでの発掘を精力的に行い、中国の陶磁器が

中世を通じてエジプトまで輸出されたことをつきとめ、陸路の「絹の道」とは別に東西文化交流の大動脈「海のシルクロード」という言葉を

定着させ、「陶磁器貿易史」という新分野を開拓した宮津出身の人物です。

国盗り物語のヒロイン 宮津藩一色氏の姫君

司馬遼太郎の「国盗り物語」のヒロイン深芳野は、父は丹後宮津城主・一色左京大夫。42歳の厄年の子で禁忌せられ、姉が美濃の土岐

頼芸に輿入れした折、一緒につけてもらわれた絶世の美女であった.

斉藤道三が頼芸と酒宴の席で行った賭けの結果、道三の妾となりますが、そのときすでにお腹に頼芸を宿していました。道三は、誕生した

わが子の血筋を半ば公然のものとして、美濃一国をわがものとしますが、晩年になってその時の子が成長した斉藤龍興と対立し、織田信長に

「美濃一国の譲り状」を書き残して壮絶な最期をとげます。

深芳野の子の斉藤義竜の子の斉藤龍興は朝倉氏滅亡のおりに運命をともにしますが、その子の徳元は江戸俳諧の代表的人物として活躍します。

丹後宮津に長く滞在して智恩寺や成相寺で吟行をしており、智恩寺に墓があります。

深芳野はNHKの大河ドラマで、三田佳子が演じました。2005年の民放ドラマでは鈴木杏樹が演じました。

三井長右衛門 天橋立を守った人

天橋立は、3.6キロの細長い砂州で区切られ、宮津湾と内海の阿蘇海に隔てられます。わずかに、南側の岸近くに2本の水路で結ばれ、

船の交通路となっています。船を通すために、回転する「廻船橋」があります。天橋立には、びっしり松が生い茂り「日本三景」として

人々に愛されてきました。この美しい景色を権力者の都合により、無残にも途中で断ち切られてしまうという企てがありました。何より

軍部が優先される、日中戦争前夜に起こったできごとで、勇気をもってその暴挙を阻止した物語です。

三井長右衛門が、宮津町長に就任したのは、昭和10年10月。6年間の在職期間に下水道埋設、地下防火槽の設置、普甲峠の開サク、

丹後半島周回道路の開サクまどなど今日の自動車の時代を予見した、次々公共事業を進めました。

戦後、岩崎英精氏によって明らかにされたのは、昭和12年日本軍が上海事変をきっかけに中国本土へ戦火を広げていった時期です。

陸軍大将林銃十郎内閣の商工大臣伍堂卓雄は、軍需物資の増産を目論見、阿蘇海の南西にある日本冶金が大江山のニッケル鉱を精錬して

いることに目をつけ、橋立を切断して大型船を直航できるように計画し宮津に乗り込みました。

会談は、荒木旅館で行われました。宮津からは、町会議員、町会役員など町民の代表が呼ばれ、みな不安な面持ちで席に着きました。

政府のひと睨み縮じみ上がると思った伍堂大臣の前に一番前に座った宮津町長三井長右衛門は、少しも動揺せず「後日改めてお返事を」

と、首をタテに振りませんでした。2回目は、三井長右衛門ひとりだけ呼ばれ密室での会談となりました。圧力をかけられたでしょう。

「戦は一時期のもの、100年続くわけではない。だが、橋立を切断すれば元には戻らない。」との持論を粘り強く交渉し、とうとう

伍堂大臣はあきらめました。この日、懐に三井家に伝わる短刀を忍ばせ、主張が受けいれられなかったらその場で自害するつもり

だったそうです。その後、陰湿ないやがらせが続き、町会議員の切り崩しもあり、三井は昭和19年失意のうちに亡くなりました。

今日、多くの方が天橋立を訪れ、日本三景の美しさに感動して渡っていますが、命を捨てて守り抜いた宮津人がいたことを何人が

知っているでしょうか。