いにしえの城下町の宮津とは-

丹後の宮津でピンと出した。♪

宮津節の一節ですが、宮津の町は江戸時代、北前舟の寄港地として栄えた花街の様子を歌っています。

宮津に城が作られたのは、戦国時代に織田信長の命を受けた細川藤孝・忠興父子が天正8年(1580)に丹後に入国し、浜辺に宮津城を作ったのにはじまります。細川氏は関ヶ原の功績で九州中津へ移り、江戸時代になると京極氏が入り宮津城と城下町を整備します。京極氏のあと、永井、阿部、本庄氏ところころと藩主が変わります。幕末まで続いた本庄氏は老中を務める譜代の藩で、大政奉還の後いち早く城を取り壊してしまい跡かたもありませんが、江戸時代に作られた町割り、旧家、古寺などが残り、上質な文化財が見られます。知られざる隠れた物語が数多くあります。

寺町・教会

寺町:宮津まちなかの西部、大久保山の麓に12ケ寺が密集しています。金屋谷、小川町と寺町を形成しています。その多くが、江戸時代初期寛永年間創建で、京極氏が宮津城を再建した時期にあたります。京極氏ゆかりの寺が多く見られます。火事や戦災に合わず、江戸時代の上質な文化財が見られます。京都にあるような観光寺ではなく、檀家さんのための祈りの寺院ばかりです。ご住職が守り伝えた文化財をご好意で、目の前で見られるのが魅力です。是非、私ども観光アテンダントといっしょに見に行きましょう。

教会:宮津市役所の近くには、カトリック宮津教会の白い建物があります。明治29年に建てられた教会で、フランス風の外観に対し、内部は畳敷きの和洋折衷の珍しい建物です。現在でもミサが行われている信者さんの祈りの場です。現役の教会として、最古の建物です。神父さんの好意で、内部を見られます。創建したル・ラーブ神父の足跡や戦国時代、迫害を受けながら信仰を続けた細川ガラシャとも深い関わりを残します。

ご案内については、「当会について」をご参照ください。

神社:宮津まちなかには、東部に和貴宮神社、西部に山王宮日吉神社とふたつの神社があります。毎年5月13日から15日まで江戸時代より続く、宮津祭りが開かれます。両神社の氏子が、浮き太鼓、神楽、神輿を夜遅くまで、まちなかを練り歩きます。笛、太鼓の音色に包まれます。神社には、江戸時代から伝えられる上質な文化財や北前舟で栄えた跡が見られます。

 

 浄土真宗 本願寺派 金屋山 佛性寺

細川家と縁の深い古刹 寺町の玄関口にある優美な佇まいを残す古寺 

      佛性寺山門              山門に掘られた「九曜紋」      安政5年 中井権次6代目による  

寺町の突き当りにある古い山門があるお寺が、佛性寺です。宮津市誌によると、寛永2年(1625)田辺瑞光寺の明誓上人の子、順誓上人により

建立されたと書かれていますが、寺伝によればもっと古く天正年間にさかのぼります。

明誓上人について、田辺瑞光寺で聞くと細川忠興の武芸の師匠であり細川幽斎の娘さちと結婚しています。明誓は、若狭武田家の家臣の子と

して生まれながら本願寺顕如について得度しました。明誓の祖先は、楠正成にあたり細川幽斎の田辺城籠城戦では、弟子を引き連れ参陣して

楠正成伝来の「夜戦の法」で勝利を得たそうです。瑞光寺に伝わる電話帳のように分厚い「田辺籠城戦記」があります。

瑞光寺の紋は、細川九曜紋と楠家の菊水紋がつかわれ、いまでも楠性の住職が代々守っています。14代目楠文範中将のお話では、山門に九曜紋が

使われているのは、田辺の瑞光寺とここだけです。細川家と縁の深い寺です。

細川幽斎の面白いところは、それまで信長と本願寺が10年間戦争をしていたのに、幽斎が田辺に城を築いたとき、本願寺顕如に願出て一向宗の

寺を開きたい、ついては明誓を開山として申し出たとき、喜んで本願寺の19の直末寺となりました。ここ佛性寺は、瑞光寺の別院として

明誓によって開山されているそうです。この山門は、幕末安政5年に作られ見事な彫刻が見られます。柏原の中井権次6代目が建てました。

初代は大阪城の棟梁をつとめています。10代目が本町の「中井彫刻店」の店主です。

名彫刻家 中井権次(なかい ごんじ)

中井権次は、大阪城を作った棟梁の一人として、中井姓を与えられています。4代から枝別れして彫刻家になり10代目が本町にある中井彫刻店

の店主です。特に、6代中井権次正貞、7代中井権次正次、8代中井権次正胤、9代中井権次喜一郎は、江戸時代後期から明治にかけて

寺社建築に彫刻が施された頃、東の左甚五郎と西の中井権次と称されました。丹後、丹波、但馬、播磨など200ケ寺のも及ぶ作品が残されて

います。中井彫刻店には、彫刻をの下絵(写真中)が残されています。彫刻の前に実物大の下絵が作られ、ミニチュアが作られてから欅に彫刻

されます。欅は、彫刻しやすく固い素材で長年耐えられるそうです。彫刻家は、絵もうまく描けなければならず、8代正胤(写真右)は絵師に

なりたかったそうです。10代店主は、昭和61年脳梗塞で倒れ、御嬢さん(写真左)が整理していると、和紙描かれた大量の絵が出てき鑑定して

もらった結果、中井権次の下絵であることが判明し、西脇産の「ナジオ紙」と呼ばれる粘土質を多く含んだ和紙のおかげで200年たっても

劣化しないそうです。中井彫刻店では後継者がおらず、柏原に中井権次の研究グループがあり、引き取る話もあり宮津で見られるのもあと

わずかです。

       現在の太子堂          江戸時代に作られた経蔵          本願寺と同じ作りの本堂

山門をくぐり、まず左手に見える八角形の建物は、現在の太子堂です。水上勉お父さんの作です。浄土真宗では、聖徳太子像を祀る習慣が

あり、現在の聖徳太子像加悦の檀家の人が夢のおつげで奉納されたものです。隣の経蔵は、江戸時代の作です。天井には坂本南冥作の龍の

色彩画が描かれています。本堂は、本願寺と同じ作りです。

ご本尊の阿弥陀如来立像          本堂欄間には、蕪村の下絵「波濤万里」      佐藤正持作の襖絵

ご本尊は、阿弥陀如来立像です。目には水晶、唇にめのお、歯が描かれ、運慶の流れをくむと言われています。瑞光寺には同じ様式の

阿弥陀如来立像がおられますが、元々府中の万福寺にあったそうです。収められていた厨子が重要文化財として妙立寺にあります。

ご本尊が収められている須弥壇には、龍の彫刻が施され中本山の家格を表しています。柱には、獏の彫り物が描かれています。

本堂の欄間は、与謝蕪村が描いた経が岬の波濤万里を下絵にして作られたそうです。

本堂の襖絵は、源氏物語「澪の図」です。源氏が明石の浜に母を迎えに行くところを描いています。江戸出身の勤王思想の画家

佐藤正持の作です。佐藤正持については、群馬県の土屋文明記念館の文学紀要の中に「紙芝居の始祖説」として紹介されています。

佐藤正持は谷文晃に師事して、勤王思想に感化され街頭で女子供に絵を見せながら狂言師から習った声色で演じていたそうです。

やがて、幕府の目をさけ京へ流れてきたうち、宮津藩の本庄宗秀に乞われ、宮津に滞在し、その後倉敷に移り生涯を終えています。

倉敷市立美術館には、佐藤正持の描いた紙芝居の原画が残されているそうです。

また、宮津の山王宮日吉神社には、宮津祭りの祭礼描いた絵馬が残されています。

当時、譜代である宮津藩の殿様自ら勤王思想の画家を招いたところに面白さが感じられます。

また、佛性寺の本堂では、幕末にイギリス船が入港したときイギリス船員の休憩場所に使われ、幕府の外国奉行、目付役、宮津藩の

役人と会見したことが記録され、町年寄の殿村五兵衛御用留日記に詳しくその時の献立が書かれています。鶏肉、卵、カステラが

出されたそうです。殿村日記の原文を現代文に書き写したものが、宮津図書館にあり、町人の家族構成宗門改め、裁判記録、遊女の

在籍状況まで細かく記載され、当時の宮津藩の世相がうかがえます。

佛性寺:アテンダントS 

 

 浄土宗 仏光山 栄照院

京極家の家老落合内蔵助の母の菩提寺として建てられた古刹

佛性寺の裏手、金屋谷の大頂寺の左手にある階段を上ると栄照院があります。

ここのお寺は、いつでもクラシックが流れている本堂が素敵です。

ご住職は、若手サークルで作る馨明の会を作っています。

さて、この栄照院は京極家のお殿様や奥方に関連した寺院があるなか京極家の筆頭家老落合内蔵助の母の菩提寺として、この寺町では

後から建てられました。栄照院は、母の院号がそのまま寺の名前になっています。京都の高台院と同じですね。

ご本尊は、阿弥陀三尊像です。宝物は、たくさんあるそうですが、書院に公開されているには、蕪村の俳画「傘おばけ」や栄照院の位牌。

真言宗の教義を確立した覚鍐の作の地蔵菩薩(非公開です。地蔵盆と和火の日のみ公開されています。)和田屏山のかけ軸などがあります。

蕪村作の板戸がありますが、残念ながらうすくなって見にくいです。

栄照院:アテンダントF

 

 浄土宗 宝徳山 大頂寺

本庄家の菩提寺として、寺町の一番見晴らしのよい所にある古刹

宮津市指定文化財「御霊屋」綱吉直筆の書が伝えられる

正面の長い石段をあがったところが、宮津の寺町では一番高いところにある大頂寺です。

和火の日は、この坂にたくさんの燈籠が並べられ滝のように彩られます。

江戸時代の中ごろ、宝歴8年(1758)から幕末まで宮津を治めた本庄氏の菩提寺として知られます。

遠州浜松から入封した本庄氏は、ここより高いところにお寺を作らせなかったそうです。本庄氏の遠祖は、三代将軍徳川家光の側室桂昌院。

五代将軍綱吉の母です。江戸城で朝夕の念仏持に使われていたものをここに御霊屋が移されています。玉の輿の語源と言われています。

        大頂寺入口               和火              遠景(天橋立、傘松公園)

山門をくぐると、まず右手に二代将軍徳川秀忠、三代将軍家光の供養塔があります。隣には、大頂寺を開基した京極高知の墓があります。

大頂寺は、慶長11年(1606)関ヶ原から数えて6年後、現在より西の犬の堂に香華所として作られます。関ヶ原の功績で信濃飯田藩から

丹後宮津藩13万石へ出世した京極高知が入封します。当時、細川幽斎が関ヶ原を前に宮津を焼き払ってしまったので、田辺城を拡張して

住みます。そして、宮津の香華所として大頂寺を開基します。現在地へ移されたのは、高知の子高広になってからです。高知の兄高次の

正室は浅井三姉妹の初です。その妹江が徳川秀忠に嫁いでから親戚関係になります。徳川家との関係を強く示しているのが、秀忠、家光の

供養塔でしょう。京極高知の墓は、京都にもあります。かつては、田辺の本行寺にありましが、今では豊岡の京極家の菩提寺に移されて

います。

本堂は、延宝8年(1680)に建てられています。ご本尊光背に銘が見られます。慶長11年(1606)関ヶ原の6年後には、京極家の香華所として、京極高知により開基されました。当時、宮津は焼け野原で、犬の堂に建てたそうです。その後、寛永2年(1625)に再建された

宮津城に合わせ、この地に移されたと思われます。やがて、京極氏が改易後、永井、阿部氏と変わったころに建てられています。奥平、青山と

宝暦8年(1758)浜松から転封した本庄氏の菩提寺となります。

大頂寺は、京都の知恩院を大本山としています。ご本尊は、阿弥陀如来立像、観音菩薩、誠至菩薩が固める阿弥陀三尊像です。本堂横の位牌堂

には、欄間に葵の紋があり、正面のは徳川家康公の位牌、初代から6代目の歴代将軍の位牌があります。ご住職にお伺いすると「よく、

見ると造作が少しずつ違うでしょ。作られた時期が違うんですよ。宮津の殿様は、歴代将軍の位牌を代替わりする毎に大頂寺に奉納する

習わしがあったのです。それも、浅井三姉妹の江が徳川秀忠に嫁ぎ、京極と徳川が親戚になったためです。ここは、京極家の御霊屋と

言えます。

本堂南に隣接している、部屋が「御霊屋」市指定文化財になっています。幕末まで治めていた本庄家の遠祖「桂昌院」が、江戸城で朝な

夕なに祈っていた念持仏をここに奉納されています。東照宮と同じ作りで、内陣の格天井に本庄家の紋がひとつずつ彫られています。

右が「九つ目結」本庄家の家紋。左は、何だかわかりますか。大根が描かれていますが、桂昌院は「お玉」と呼ばれ八百屋の娘から

3代将軍家光の側室になり、5代将軍綱吉の生母になったことから「玉の輿」の語源になったといわれます。

ご本尊の阿弥陀如来様(写真右)のお厨子は、左右に観音菩薩、勢至菩薩が描かれ、その外側に仏さまの守護神、持国天、増長天、多門天、

広目天の四天王が描かれている。江戸の仏師が作った最高峰の彫刻です。

若い女性は、ここでお祈りしましょう。

大頂寺:アテンダントH

 

 日蓮宗 功徳山 妙照寺

府中より早い時期に移転した日蓮宗の古刹 加藤清正公を祀る

大頂寺の階段の右側にあるお寺が妙照寺です。この寺町では、一番古いお寺です。元は、天橋立の北側にある府中にありました。時代は、

室町時代の文安元年(1444)応仁の乱の前です。丹後の守護は一色氏で、ここ府中を本拠としています。ところが、世を二分する乱で

隣国若狭の武田氏が攻めてきて、府中にある多くの寺院は戦乱の場所となりました。妙照寺も戦禍を逃れ、府中よりこの地に永正5年

(1508)一色義有により移されました。

階段を上がり山門をくぐると、小石が敷きつめられたお庭の奥にたたずむ本堂。戦禍を逃れ、移されたのは日蓮宗では大事なお寺です。

開山は日養上人が、丹後に初の道場として作られました。身延山久遠寺の直末寺です。日養上人が、身延山から持ってきて妙照寺の寺宝になっている日蓮聖人座像は、六人の高弟子日朗上人により鎌倉時代の作です。宗祖日蓮聖人が、入滅時に後を託した6人のうち一番若く、一番かわいがられたといわれます。師が弘長元年(1261)伊豆へ流されたとき、鎌倉弓が浜で師の後を追い、船が見えなくなると悶絶したと言われます。文永8年(1271)龍の口首座の時、自分が先に首を切られんとされた方です。宗祖亡き後に面影を偲ばれ彫られています。意志の強さの中に優しい眼差しで

見守って頂いています。厄除けの功徳を得られるとして祀られています。

    ご説明される森住職         日蓮聖人座像(市指定文化財)       清正(せいしょう)公像

熊本城を作った加藤清正公は、熱心な法華経信者です。九州の法華経流布の基礎を築き、熊本ではその仁政から加藤家断絶後も民衆から

親しまれています。妙照寺には、朝鮮出兵の時持参したと言われる「お題目の旗」が寺宝となっています。かつては、境内に高さ7mの

銅像が建てられていましたが、残念ながら戦時供出で失われてしまいました。現在でも7月23日の夜に「清正公夏大祭」が行われます。

寺宝「七面大明神」は、元禄3年(1690)仏師祐慶作です。日蓮聖人が身延山で説法していた時、見慣れぬ美人に不審に思い「あなたの

本体を見せてあげなさい」と言われると、婦人は竜の姿をかえ七面山に去ってゆきました。聖人が亡くなった後、日朗上人が七面山に登り

山頂にお祀りしたのが、法華経の守護神と信仰されています。江戸時代、お万の方(家康の側室)が白糸の滝で水行されてからは男女を問わず

信仰が行われています。妙照寺では、4月19日に七面天女大祭祈願が行われます。

妙照寺:アテンダントM

 

 日蓮宗 長久山 本妙寺

寺町で唯一コンクリート造の本堂を持つ 京極高広室寿光院が実父徳川秀忠の菩提寺として創建

大頂寺への途中、右手に見えます寺町の中で唯一コンクリート作りの本堂が見えます。長久山本妙寺です。寛永2年(1625)京極高広の

室寿光院が日蓮宗に帰依し、養父の徳川秀忠の菩提のために建てられました。開山は、田辺の妙法寺の日賢上人です。

  本妙寺・コンクリート作りの本堂       江戸時の山門「京極紋」     徳川秀忠と寿光院の位牌が祀られています。

本堂は、昭和6年火災で焼失してしまいました。昭和47年に耐火構造で作られました。創建当時の面影が残るのが、旧山門で京極家の紋が

見られます。ご本尊には、養父徳川秀忠公と寿光院の位牌が並べてお祀りされています。ご住職の話では、開山した日賢上人はすでに

なくなっていて、弟子の方が師匠の名を開山にしたそうです。

舞鶴の妙法寺は、同じ山号「長久山」が使われています。日賢上人と細川幽斎との逸話があります。狂歌の名人の噂を聞いた細川幽斎が庵を

訪ね、日賢上人が答えました。「世の中は風呂や柄杓もさも似たり。入るときばかりわが物にして」感慨した幽斎が1万坪の寺領を与えた。

細川幽斎と日賢上人の関係は、日賢上人が小浜後瀬山の妙興寺の中興にも関わり、後瀬山と言えば若狭武田氏の本拠地。瑞光寺の明誓上人が

武田氏の家臣の子であるのと同様、武田氏との橋渡しに関わったと思われる。

本堂裏の墓地には、万治2年(1659)の寿光院殿供養塔が城下を見下ろすように建てられています。

また、階段の上がり口にある墓石が栗原百助の墓碑です。文政5年(1822)暮れに、万人講に反対した宮津藩最大の一揆「文政の一揆」

百姓に同情した江戸家老栗原理右衛門とその子百助は、義士と呼ばれ大正12年には、ここ本妙寺で100年忌の法要が行われた。

万人講は、老中を出す宮津藩にとって考えられた金策で、国家老澤邊北冥が中心になって企画したと言われる。しかし、近年の研究で澤邊北冥は

京大坂で、金策に走り事件とは無関係との意見もある。江戸と国元のかけひきで起こった事件であるが、江戸から明治に移る民衆運動に発展して

行く原因となった。

本妙寺:アテンダントA 

 

 日蓮宗 本城山 経王寺

京極高広の娘了智院の菩提寺 本堂に巨大な龍の天井画があります。

本妙寺の隣にある経王寺です。地元では、「きょうじ」と読みます。寺伝では、慶長2年(1597)与謝郡本庄村(現伊根町)にあった

真言宗楞厳寺を日依上人が法論の末改修し、慶長7年に藩主京極高広の帰依を受け現在地に移り、娘了智院の香華所となる。と、あるが

京極高広が宮津藩主になるのは元和8年(1622)であり、娘の菩提寺となればもっと後のことになり、はっきりしない。

本堂は、弘化2年(1845)再建された。鬼瓦や長押の釘隠しに京極家の紋が描かれている。現在、降ろされている鬼瓦のは「三庚辰年

八月吉辰/丹後田辺倉谷住瓦師七則次」と読める。庚辰三年は文政3年(1820)にあたる。

境内に建てられた細長い供養塔は、天保年間浅間噴火によって引き起こされた大飢饉。丹後地方でも多くの死者を出し供養塔が建てられた。

弘化2年(1845)本堂が再建されています。内陣の天井は飛天(作者不明)かつては、回転したそうで、位牌が倒れてしまい今は回転して

いないそうです。天井一面に龍の天井画があります。とても大きくて写真に入りきりません。宮津市史では雲龍図とありますが、江山文庫の

郷土資料では、蟠龍図としています。天に上がる前の姿なので、後者が正しいと思います。幕末、宮津に生まれ岸駒に師事して、郷土に多くの

作品を残している和田屏山の作です。田恭屏山の署名があります。落款は、真照寺の父母の墓石に刻んだものを使ったといわれています。

屏山の変わった一面を見ます。実家は真宗ですが、日蓮宗に帰依して大阪の円妙寺に葬られています。

本堂裏の墓地を見下ろすように建てられているのが、京極高広の娘了智院の供養塔(写真左)です。

また、本林家の墓敷地の中に小さい墓石が幕末活躍した関取「岩ケ洞長次郎」の墓石(写真中央)です。漁師町には、大きな石碑(写真右)

があります。大正5年宮津興業で当地にきた横綱太刀山が、郷土の先輩力士の名を刻んだそうです。

経王寺:アテンダントN

 

臨済宗 妙心寺派 泰叟山 国清寺

京極高広室寿光院が実父池田輝政の菩提寺として創建

一番奥にある寺院が、寺町唯一の臨済宗の国清寺です。寛永2年(1625)京極高広の室寿光院が実父池田輝政の菩提寺として建てました。

京極高広の室は、茶々と言いあの姫路城を作った戦国武将池田輝政の娘として生まれ、京極家へ輿入れする前に徳川秀忠の養女になって

います。徳川家から化粧料がある彼女は、宮津に本妙寺と国清寺と2つの寺を建てています。

開山は、田辺大泉寺より別源禅師を招いてます。別源禅師は、文珠の智恩寺の中興しています。以前は、両寺の住職が兼ねていた時期もあります。

大泉寺は、開山が琢堂和尚。妙心寺64代目の管長大徹法源禅師の直弟子です。3世大淵和尚は、細川家の菩提寺泰勝院の開山に関わり、

この三和尚が、天皇よりおくり名を賜っています。

山門前には、春には桜。秋には紅葉。冬には雪化粧が美しいです。国清寺は、金屋谷で一番若い地番で、宮津湾から正面に見えます。

山門から正面にある本堂の姿は、禅宗にふさわしい美しいたたずまいです。丹後地方の臨済宗はすべて妙心寺派です。

右手に、「切支丹燈籠」(写真右)があります。織部燈籠ですが、竿の張り出しが十字架に似ていること、意味不明の文字が刻まれていること、

などから隠れ切支丹の信仰が伝わります。細川ガラシャや京極キリシタン大名との関わりもあると思います。智恩寺のも同様の燈籠があります。

左手にある、経蔵(写真左)は内部に八角形の輪転蔵が置かれ、経典を収納できる作りです。享和2年(1802)浅田治左衛門氏の作です。

隣の地蔵蔵(写真中)は、高さ2メートルある「出世地蔵」の板碑があります。大正13年宮津線の工事で出土して、永徳2年(1382)

の銘があります。その隣には(写真右)には、墓石が集められている中で、天橋義塾で活躍した小笠原長孝氏の墓石も見られます。

国清寺の見どころは、書院の襖絵です。和田屏山をはじめ松川龍椿、松亭などの幕末に活躍した郷土の画家が貴重な作品を残しています。

国清寺の庫裏には、書院は3間あり、続き間としても使えます。手前の間には板戸があります。まず写真右が松川龍椿の「波濤に鶴」の図です。

松川龍椿は、四条派松村景文の弟子にあたります。奥にあるのが(写真中央)和田屏山の「竹に亀図」です。真ん中の奥の襖(写真左)が和田屏山の

「鴛鴦図」です。天保14年(1843)の作です。

真ん中の襖絵が、和田屏山の「水呑虎図」です。中央にあたりを窺いながら水辺に現れた虎、その横でカササギが小気味よく描かれています。

鵲虎図と呼ばれ、李朝で好んで描かれた作品で、虎が王様、鵲が庶民をあらわしています。師匠岸駒が得意とした作品です。

欄間には松亭の作品(写真中央)があります。虎の襖絵を開けると、奥の間には一面に富巌が描かれている。(写真右)

奥の間に座ると、囲むように富巌図が描かれています。落款に「己丑秋」とあり、文政12年(1829)屏山24歳です。

24歳の若さでこのような作品を描くとは驚きです。書院は、非公開です。当会、宮津観光アテンダントまちなか案内人にお問い合わせ

ください。

国清寺:アテンダントS

 

寿光院と池田家

寿光院(京極高広室)の実父は池田輝政です。養父は、徳川秀忠です。寺町に、実父の追福のため「国清寺」を建て、養父のため「本妙寺」

を建てられたのは、徳川家からの化粧料のためと思われます。なぜ、京極家の奥方になる前に徳川秀忠の養女になったかと言うと、実母が

徳川家康の五女富子であったからではないでしょうか。

戦国大名池田輝政の父は池田信輝(恒興)です。池田信輝の母(養徳院)は、織田信長の乳母です。織田信長の乳母は、信長の幼少期から

気性が荒く、たびたび乳を噛み千切り交代させられます。養徳院になってからなつくようになり「大御ち様」と呼ばれました。養徳院は、

信長の養育の乳母とする説もあります。

池田信輝は織田信長とは乳兄弟になります。その縁で信長の家臣として、姉川の合戦に従軍して働くうちに次第に勢力をつけて行きます。

信長に謀反を起こした荒木村重の居城花隈城をいち早く押さえたことが功をさし、有岡、尼崎とあわせ村重の後に10万石の大名となり

摂津の有力土豪になります。このころ、茨木城主中川清秀を娶り、縁組を結びます。

本能寺で、信長亡きあと秀吉について明智光秀の追討にも参加します。秀吉、勝家、丹羽長秀とともに4宿老といわれました。信長の後継を

決める清洲会議にも参加しています。

賤ヶ岳の後、摂津から美濃へ移され、信輝が大垣城主、長男元助が岐阜城、次男輝政が池尻城主となり、岐阜の町では、社寺の保護、

信長同様に楽市楽座を作り、岐阜の発展に務めました。岐阜円徳寺には信長の発給した制札2枚のほか、天正期に元助、輝政の制札も見られます。

小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉につきますが徳川家康軍に大きな痛手を負います。信輝、元助、信輝の娘婿森長可のの討死です。

その凄惨な場面は「小牧・長久手合戦屏風」として描かれています。(大坂城天守閣蔵)

豊臣秀吉は、いち早く養徳院、輝政、池田家の老臣土倉四郎兵衛へ書状を書き、輝政が後継となり池田家の家臣がばらばらにならないように

指示しました。茨木城主の中川清秀と姻戚関係を結び、池田信輝の嫡男輝政と中川清秀の息女糸子の結婚しました。やがて

嫡男利隆が生まれ円満な夫婦生活が10年続きます。突然、輝政は離縁を言い渡し、糸子の代えて徳川家康の五女富子を迎えます。

江戸時代に大名の系譜を書いた「寛政重修家譜」によると、「文禄3年、輝政太閤の命により、東照宮の御息女督姫(富子)を迎える。」

とあります。糸子が亡くなり継室に富子を迎えたように書いていますが、実は糸子は死んでおらず、弟秀成の豊後岡藩 へ身を寄せています。

小田原征伐で、北条氏直に嫁いでいた徳川家康の五女富子は実家へ戻っています。次の嫁ぎ先として目をつけたのが、池田信輝の嫡男。

関ヶ原の合戦で勝った家康は、加藤清正、福島正則など秀吉子飼の家臣ではない池田輝政を取り込みたい、身内にななれば身分の保証が

得られるとの池田家との思いが合致したからと思われます。

関ヶ原の論功行賞で、輝政は三河吉田15万石から一躍播州姫路52万石に大出世します。やがて、嫡男利隆が跡を継ぐと面白くないのは

富子、家康におねだりをして実の子忠継に備前岡山28万石をもらいます。輝政の弟長吉にも鳥取6万石が与えられ、合わせると86万石

になり、島津家を凌いで前田家に次ぐ大勢力になります。

一方、中川家では輝政の仕打ちに憤慨しました。姫路が利隆の時代になると、富子が忠継との釣り合いが合わないと、利隆の宍栗、赤穂、

佐用10万石を忠継へ割譲させています。利隆は、せめても糸子に帰ってきて欲しいと懇願しますが、中川家では虫がいい話と断ります。

元和元年(1615)糸子が死去すると、分骨供養を申し出ますが、それも拒絶されたそうです。

事務局S

 

 浄土宗 一心山 見性寺

蕪村寺として親しまれる浄土宗の古刹

万町通りの突き当りにあるお寺の山門が、小川町にある浄土宗知恩院を本山とする一心山見性寺です。

創建は、寛永2年(1625)大頂寺5世伝誉上人によって開山です。ここが、蕪村寺と言われているのは、宝暦4年(1754)から3年半

与謝蕪村が逗留したことによります。本堂は、焼失してしまい現在の建物は、明治時代に再建されていたもので、蕪村滞在当時のものは

ありません。

境内には、蕪村をこよなく愛した河東碧梧桐作の「短夜や、六里の松に更け足らず」の句碑が目を引きます。芭蕉門下の雲裡坊が蕪村を訪ねて

きた時の詩です。六里は、古い単位で600メートルに相当します。蕪村は、放浪の末、京都東山の百韻興行で見性寺の竹渓和尚の誘いで宮津に

来ました。新花摘に「むかし丹後の宮津の見性寺といへるに、・・・」に出てくるお寺がまさしくここです。当時39歳で、この地で新妻をもらい

俳句、画業に円熟期を迎えます。「夏河を越すうれしさよ手に草履」は、夏の暑い日、新妻を背負い河を素足で渡った楽しい様子が歌われて

います。加悦町に歌碑がありますので、合わせて訪ねられてはと思います。無縁寺(現在は無住寺)の両巴、真照寺の鷺十と交友を深めたと

言われます。残念ながら、蕪村の作品はほとんど残っていませんが、確かにいた足取りを、現在の見性寺のご住職があたたかい口調で

お話し頂けます。

先ごろ、梅田住職により、本堂前に蕪村像が建てられました。開眼法要もあわせて行われました。蕪村像の柔和な表情をみていると

どことなく、御住職に似ていられるようです。

蕪村寺の新しい名物として、拝観されてはいかがでしょうか。

見性寺:アテンダントO

 

浄土真宗 閑雲山 真照寺

蕪村の俳友鷺十が住職を務められた古刹、落款に使われた和田屏山の実家の墓石がある

寺町では、一番奥の宮津線の線路をくぐり、あるのが浄土真宗真照寺です。天台宗寺院として、滝馬にありましたが、天正3年(1575)

火災により大久保に移り、一色五郎義俊の祈願により、本願寺顕如上人により真照寺の寺号を得ています。京極高広のころに現地に移り

今日に至ります。第7世恵乗上人は「鷺十」の俳号を持ち、見性寺に与謝蕪村が滞在したおり、見性寺の竹渓、無縁寺の両巴と俳友でした。

山門(写真左)は、宇治万福寺をまねています。本堂天井画には、平成17年に完成した百体の龍の図が描かれています。檀家の大阪在住の荒木さんが

ご住職の依頼を受け、奈良県の寺院などを訪ね歩き仏の守護神とされる龍を天井一面にさまざまな姿を3年の歳月を要して墨で描いた作品です。

辰年に是非見ておきたいです。また、墓地への入口に祠に入ったお地蔵様(写真中)があります。珍しい、裃をつけた姿で「裃地蔵」と言われて

います。幼子の夜泣き封じに効果があるそうです。墓地の階段付近に和田屏山の父の墓石(写真右)があり、裏面に落款が彫られています。

経王寺の天井画に使われたそうです。夕方の時間に見ると、影ができ見易くなります。

アテンダントS 

 

真言宗 巌松山 如願寺

宮津寺町では、最古の真言宗の古刹

寺町から天橋立寄り、白柏通りを行くと滝上公園の看板を左に曲がります。宮津線の線路を超えると、如願寺川の渓流にかかる太鼓橋が

あります。ここが、如願寺です。

寺伝によれば、万寿元年(1024年)比叡山の僧皇慶上人が、行基菩薩作の薬師如来を背負うて、この地で動かなくなりこの地に寺を開いた

と言われ、旧宮津城下できっての歴史を誇る寺院です。かつては、如願寺川を挟んで塔頭が立ち並ぶ域内屈指の寺院でした。戦国時代、軍事基地

となり、兵火により多くが焼失してしまいました。今では仁王門と本堂を残すのみです。仁王門は、元禄3年作で宮津では最も古い門です。昭和27年までは、現在の宮津線の踏切あたりにあったそうです。

本堂は、棟札によると、寛文12年(1671年)永井尚長により造営され、大工は富田平左衛門茂平で本願の成智院以下七坊の名が見られます。

正面、側面とも六尺五寸の正方形で、江戸時代初期の宝形造です。軒下に猫のようなユーモラスな虎と龍の彫刻。(写真左)本堂の開扉に太陽

と月が描かれています。(写真中)ご本尊の薬師如来様の脇侍、日光菩薩と月光菩薩の象徴です。薬師如来様は、秘仏で甲子の年のみご開帳

されます。ともに、市の指定文化財になっている、皇慶上人座像は本堂に安置されています。

境内にある宝篋印塔には、正和元年(1312)・弘治3年(1557)の銘があり、ともに室町時代である。

境内には、芭蕉堂(写真右)があります。明治33年芭蕉の木像と真筆が収められ、建物は近年建て替えられている。収められている芭蕉の句は、

「髪に挿す榊もすずし神輿かき」境内にある句碑は、「春もやや景色ととのふ月と梅」があります。並んで、地元の俳諧師が作った句碑、

「水打て庭に蘇生の思ひあり」旭山。「瀬の深み雲間に見えし天の川」一止。「聊かな雲にもそふて行時雨」亀玉。「はいかいの道忘れじな

帰る道」雨光。巌松吟社という、山号からとった俳諧結社がありました。

また、本堂の前にある祠に「火松地蔵」(写真中)は、落雷で倒れた松の根元に巻き込まれていたお地蔵様。山門の入口にある「乳地蔵」は

甘酒を備えられ、安産と母乳の出に効果があると言われています。

アテンダントA

 

山王宮日吉神社

春には含紅桜・秋には赤ちゃん土俵入りが有名な神社

如願寺の敷地と鳥居をはさんで、日吉神社の敷地があります。お寺と神社の敷地が接している珍しい例です。由良の如意寺と由良神社、西舞鶴の

円隆寺と朝代神社も同様です。いずれも真言宗の寺院で、明治以前はお寺が広大な敷地を所有していました。

日吉神社は、明治以前は山王宮と言われ創建は平安時代にさかのぼります。接社杉末神社は延喜式にも記録されています。

明治になり、滋賀県の日吉神社より勧請して現在の名前となっています。江戸時代、歴代藩主の帰依を受け、例祭宮津祭りが賑わっています。

山王宮の氏子が行う宮津祭りは、以前4月24日に開催されていましたが、昭和30年ごろから和貴宮神社の宮津祭りと同じ5月15日に

(写真中)行われます。日吉神社には佐藤正持作の宮津祭りのにぎわいを描いた絵馬があります。

山王宮(山王社)は、本殿(写真左)に残る棟札で最も古いものは、天文18年(1549)があり、丹後国伊祢庄一宮山王社とあり、江戸時代には

伊祢八ケ村、日ケ谷、外垣内、岩が鼻、大島までの総土産でした。現在の上屋は文政6年に再建されています。

正保4年(1647)京極氏により社殿を下の敷地に移され別荘ができました。永井氏の頃に「漱玉亭」と名つけられ、永井尚長によって

名つけられた「含紅桜」(写真右)が、今でも花を咲かせています。奥平氏の時期に現在地に社殿が移されています。

杉末神社が建てられたのは、寛政6年(1794)です。杉末神社の祭礼として、「赤ちゃん初土俵入り」があります。10月の体育の日に

行われ、生後6ケ月から2歳までの赤ちゃんが、見えない神様と相撲をとり、尻もちをつく。大きな声で泣く子は育つと言われています。

江戸時代初期に宮津では草相撲は開かれていました。江戸中期になると、氏子の中から自分の屋号を染めた化粧回ししめた自分の息子に締めさせ

赤ちゃん相撲の原型ができました。現在では、関西方面から多くの参加者もこられ、夕方まで行っています。

日吉神社の本殿とならんで、いくつかの祠が建てられています。杉末神社と恵比寿神社、琴平神社、船魂神社とそれぞれあります。

寛政6年(1794)杉末神社が建てられ、恵比寿神社も同じ時期と思われます。

山王宮日吉神社:アテンダントR

 

桜山天満宮・本庄神社

菅原道真像を祀る桜山天満宮・

旧本庄家藩士が幕末多難な時代の亡き藩主の墓を建立した神社

もう一度、旧城下町に戻り万町通りに鳥居があり、奥に神社があるのが見えます。正面にあるのが、桜山天満宮、左に万町会館と隣が本庄神社です。

桜山天満宮は、宮津城下を作った寛永2年(1625)頃、京極高広が叔母松の丸より預かった菅原道真像を祀っています。

松の丸は、大河ドラマ「江」で鈴木砂羽さんが好演したのに記憶されているかと思いますが、京極家18代当主高吉と浅井長政の姉マリア

との間の長女竜子です。若狭藩主となった京極高次、初代丹後宮津藩主京極高知と兄弟です。戦国時代、数奇な運命をたどる女性です。

最初、若狭武田家の元明に嫁ぎ、2人の子をもうけますが夫が、本能寺の変の後で明智光秀に味方したばかりに、秀吉につめ腹を切らされ秀吉

の側室になります。この2人の子供は、戦国の世ならば殺されて当然ですが、秀吉の正室おねの実家木下家の養子となり、ひとりは江戸時代に

備中足守藩の藩主までなっています。秀吉の側室は、お茶茶淀君は有名ですが、単にお妾さんというような意味ではなく、秀吉政権の裏方を

支える協同経営者として大阪城、聚楽第にいたようです。松の丸は、豊臣家の教育係のような役割を担い、子供ができると健やかな成長を祈って

菅原道真像を送ったうちのひとつなのでしょうか。

本庄神社(写真左)は、本庄家の6代目藩主宗秀と7代目藩主宗武が祀ってあります。本庄家の菩提寺は、大頂寺にありますが6代目と7代目は

明治になってからなくなっています。伊勢神宮、籠神社の神官を務めていましたので、本庄家の旧藩士により祀られました。元は背後にある

桜山公園から大久保山の入口(写真中)にありました。今でも古い祠が残っています。

現在の本庄神社は、江戸時代蜜言寺という真言宗の寺院がありましたが廃寺となり、場内二の丸にあった昌国神社の祭祀を引き継ぐ形で造られ

ました。蜜言寺にあった厨子は、日置の金剛心院に移され、重要文化財の愛染明王像のお厨子となっています。

この2人の殿様は幕末の多難な時代、数奇な運命をたどりました。宗秀が6代目藩主についたのは、天保11年(1840)26歳の時でした。

譜代の藩である本庄家は、5代目同様に奏者番、寺社奉行となりました。寺社奉行時代に安政の大獄が起こり、反幕府勢力の弾圧の時の裁判所

長官の役目を務めました。その後、大阪城代、京都所司代になります。京都所司代就任時は、文久2年で京都は勤王、佐幕で荒れ狂った時期で、

会津藩に京都守護職の命が下った頃です。松平容保は、安政の大獄で活躍した宗秀は勤王派を刺激するとの理由から就任には反対しました。

宗秀は老中となり、慶応2年の第二次長州征伐の副総監として派遣されますが、幕府軍は連戦連敗、捕虜として捕まえた長州藩家老宍戸備後を

独断で釈放し停戦に持ち込みますが、江戸に帰ると責任をとらされ蟄居、7代目に引き継がれ明治になります。

ところが、新政府に睨まれる譜代の藩にあって、長州藩家老を逃がしたことが結果的に幸いし、罪一等減じられ新政府に出仕して豊岡県知事を

務めました。宮津のまちなかには、宗秀自ら描いた「えびす様の絵」がかけ軸として何点か残されています。絵を書くことが得意な殿様で領民に

配ったそうです。時代に翻弄された殿様でしたが、何より領民を大事に思っていたのでしょう。今でも宮津の人は、宮津祭りでは本庄家の紋をつけ、

本庄さんと親しく呼んでいます。(写真右は、大頂寺に残る本庄宗秀候の自画像とえびす様の掛け軸です。)

桜山天満宮・本庄神社:アテンダントS

 

和貴宮神社

北前船のとともに栄えた神社 宮津祭りの春の祭礼はにぎやかに行われる

宮津市史によると、寛永2年(1625)宮津城ができると、丹後一宮籠神社より勧請したと書かれています。江戸時代の古地図には分宮と記載されています。

神社の言い伝えによると、和銅6年(713)に天御中主神が、浜辺に我野姫命、天字受姫(弁才天)を祀ったのにはじまります。境内にある

大きな岩が水越岩(なみこしいわ)写真右と呼ばれる、ここに弁才天が祀られています。岩を後ろから見ると、激しく波が被ったあとがわかり

ます。現在の京街道に大手川が流れていて、このあたりが河口となります。

応永28年(1412)、「吾野の宮」と称されました。本殿左側に「五百年祭記念」写真中の石碑があります。大正10年に行われたとあり、

大正10年から遡ること500年前がこれに当たります。

本殿は、一間社流造、銅板葺。拝殿は、入母屋造りで、正徳3年(1711)の棟札には、永正2年(1505)の造営に田辺の左衛門尉、慶長17年

(1612)の造営には田辺の清左衛門、正徳元年と3年の造営には宮津住の富田又左衛門が大工であったことが記してあります。現在の本殿は、

文化4年(1807)に再建され、大工は職人町住の清水清助以下13名、富田弥四郎が後見役とあります。正徳の2回と文化のいずれも藩主の援助が

あったことを記していあすが、造営の主体は町人からなる講中で、44名の名前が列記されています。

拝殿には、「牛若丸と弁慶」を描いた絵馬は四条派の横山華山作です。もうひとつの絵馬は、松川龍椿の作です。いずれも、都の絵師が残した

絵馬が飾られ、宮津が最も華やかに栄えた時期を物語っています。

(600年祭で、拝殿は整備され絵馬は掲示されておりません。)

門の外側にある玉垣には、銭屋五兵衛、大和屋藤兵衛や播州、丹波、越前、越中、能登など北前船の寄港地の豪商が寄進したことがわかります。

和貴宮神社の春の祭礼「宮津祭り」は、5月13日の宵宵宮に始まり、5町の氏子の中で当番町が午後から神楽と浮太鼓を町中練り歩きます。

14日の宵宮では、終日まわります。15日には、神輿も加わり巡航され、クライマックスは田町通りを練り歩いてきて、門をくぐるのに

行きつ戻りつして、境内で奉納する頃は日も変わる深夜まで行われます。

和貴宮神社:アテンダントA

 

 

曹洞宗松渓山智源寺

京極家の菩提寺 宮津市最大の本堂を持つ古刹 天井画は必見

京街道にある曹洞宗智源寺は、大窪山の東麓の京街道に面したところにあり金屋谷のほかの寺と同じ時期、寛永2年 (1625)に宮津藩主京極高広が母の菩提を弔うために建てられました。高広の母、高知の妻は美濃毛利家よりきています。江戸時代、本山永平寺より丹後一国の僧録状を

受け、末寺91ケ所があり大いに栄えました。開山は、田辺桂林寺の11世心庵盛悦によります。この土地には、以前朱光庵という禅宗の寺が

ありました。慶長5年(1600)の田辺籠城戦で石田三成方に押さえられ、細川に敵対する結果となり、戦後忠興により寺領を取り上げ

られ、桂林寺の管轄になっていました。

入口向かって、左側にはおおきな半眼で微笑みをたたえ、ひざに子供を抱える子安地蔵があります。中郡鱒留の2代目松助の作といわれて

います。初代は、松助作は伊根町高梨の正法寺、日ケ谷の天長寺に子安地蔵があります。江戸時代の飢饉で多くの子供が失われ、子供の

健康、安産を願って作られました。右手にある鐘楼は、京極高広が寄進した鐘で、太平洋戦争で奇跡的に金属供出を免れた鐘です。

山門をくぐると、正面に赤門と呼ばれる仁王門(写真左)が見られます。一昨年完成した仁王門です。宮津市内にある仁王門は、成相寺と如願寺と

ここだけです。赤門完成前にあった仁王像は、大江町の曹洞宗常光寺(写真中)に移されています。常光寺の23世珠輝和尚が智源寺より入山

した縁によります。この常光寺は、丹後丹波七福神めぐりのひとつとして、境内に布袋様の像があります。寺伝によると、応永年間の開山と言われ

総持寺2世の弟子不見明見和尚の開山。京極時代に古文書と汁物が焼却処分され、智源寺2世橘州宋曇和尚が中興開山し、智源寺の末寺となって

います。また、2代目は綾部の長楽寺。4代目は林泉寺を開山しています。山門左手(写真右)には木の幹の中から発見された辛抱地蔵があります。

赤門をくぐると、左手に座禅堂、中央に本堂、右手に庫裏とそれぞれが回廊で結ばれている永平寺と同じ造りです。右手(写真左)座禅堂です。

座禅堂の中央には文殊菩薩像(写真中)があり、毎朝午前4時から座禅が行われます。修行僧に与えられたスペースは、立って半畳、寝て1畳

ただひたすら壁に向かって座禅を組む厳しい修行です。土蔵造りの経蔵には、万福寺の鉄眼禅師が天和元年(1681)に完成させた一切の経を

収める輪蔵があります。

本堂は、寛政9年(1792)の火災で焼失後、文化元年(1804)に、宮津の大工の嶋川清治郎によって建てられ、後見に冨田弥四郎、柴山羽左衛門

の名が見られます。幅8尺、広縁は1間半あり、宮津市内最大の本堂です。屋根には、京極家の家紋「平四目結」「桐」が描かれています。

明治の自由民権運動の時代、天橋義塾の演説会では1000人収容したそうです。本堂の天井画は、江戸時代後期に京都画壇を代表した20人の絵師が

合作した稀有な作品「紙本著色草花図」」で平成16年に京都府指定有形文化財に指定されました。

天井画は、廊下側から5枚「春」「夏」「秋」「冬」と4列計20枚の「草花図」です。中央には、各派の重鎮の絵が配されています。

まず、廊下側の「春」の列の中央には土佐派の土佐光孚(とさみつざね)の「梅」があります。寛政度御所造営では幼少ながら父とともに清涼殿の

障壁画を描いた画家で、この天井画を描いたのは32歳と若いですが、土佐派の重鎮です。次の「夏」の列の中央には円山派の円山応瑞の

「朝顔」があります。応瑞は、応挙の弟子です。3列目は、鶴沢派の石田友汀(いしだゆうてい)の「蓮・河骨(こうほね)」です。

内陣側の列の中央には、四条派の重鎮呉春の描いた「蔦・一葉楓(ひとつばかえで)」です。かつては、本堂に絵師が描いた襖絵があったとおもわれます。

智源寺の書院の1階には、昭和天皇が即位の礼で使われた建物が移築されています。即位の礼は、昭和3年11月6日に京都御所で

行われ、翌年下附されたことが書かれた宮内省の板があります。特徴は、襖の取っ手がありません。その後、2階に増築したため

重要文化財にはならなったとか。

書院の2階をご紹介しましょう。2階を「妙光台」と呼ばれています。まず、写真左の屏風は、宮津藩京極家の3代藩主京極高国の弟高治が

切腹に使った襖と言われています。よく見ると、屏風の一部に血が飛び散った跡があります。どこか別の屋敷で切腹した後に屏風がお寺に

持ち込まれたそうです。

写真中と写真左は、本堂にあったと思われる柴田義董作の「群仙図」です。本堂の天井画では「南天」を描いています。柴田義董(安永9年

1780ー文政2年1819)は、松村景文、岡本豊作と並ぶ四条派呉春の子飼門人です。岡山邑久町出身で、文化3年妙法院宮真仁親王の法要に

3人共同で「花卉図」50幅を奉納した。文化5年に倉敷の新書画展観で幹事役を務め、文化10年に文鳳門主催の展観で計4回、文化14年に

呉春没後7回忌追善遺作展で松村景文、岡本豊作と幹事役を務めた。人物画の柴田と言われた。若干40歳で没している。

写真上段左は松村景文作の「白梅に小倉図襖」です。本堂の天井画は「石蕗・山茶花」を描いています。松村景文(1779-1843)は、呉春子飼の

門人で花鳥画を得意としています。「白梅に小倉図」、霧の中に幹や枝にシルエットとしてあらゆる様を、巧みな墨の濃淡と運筆によって描写して

います。松村景文の門人に松川龍春がいます。

写真上段中左は、岡本豊彦作の「群馬・放水図襖」です。写真下段左は、「山水図襖」です。本堂の天井画は「琵琶」を描いています。岡本豊作

「安永2(1773)-弘化2(1845)」は、倉敷の富裕な旧家・岡本家の庶子。10代半ばで玉島の南画家・黒田綾山に師事。

大坂へ往来し山水を中心に作画し、寛政8年呉春に入門し享和元年、大津祭りの曳山に鳳凰図を描き、文化3年に柴田義董、松村景文とともに

妙法院真仁法親王の法要に「花奔図」を描いています。人柄の良さから本堂の天井画をコーディネートしたのは岡本豊彦と言われています。

「平安人物誌」に文化10年から天保9年まで登場します。

智源寺:アテンダントI

 

 

易い

 

 

旧家

宮津のまちなかには、江戸時代に建てられた豪商の建物が見られます。

重要文化財旧三上家住宅は、白壁の建物に対し、内部は黒い漆塗りの柱や大きな梁が江戸時代にタイムスリップしたようです。江戸時代は、北前舟の廻船問屋として栄え、宮津藩の政治にも深く関わっています。庭園や貴人だけが利用した風呂、部屋毎に異なった細工など宮津藩の迎賓館として利用された上質な文化財が見られます。

有形文化財に登録されている今林家住宅は、糸問屋として栄えました。外観には、糸問屋を物語る格子戸や内部には、糸問屋として栄えた文化財が見られます。

横町にある袋屋商店は、江戸時代より300年続く醤油店です。

(文章は、書きかけであります。)

旧三上家住

旧三上家住宅は、平成元年に京都府指定有形文化財に指定され、平成15年には主屋をはじめとする8棟が、国の重要文化財に指定され、平成12年

には、庭園が京都府指定名勝となっています。現在、宮津市が一般公開しています。

三上家の発祥は、はっきりしませんが但馬の守護大名山名氏の家臣で、山名氏の内紛を逃れて丹後にのがれ、江戸時代宮津藩永井氏の頃

安永5年(1776)三上字兵衛の次男勘兵衛が分家して、宮津城下有数の豪商として栄えました。元結屋、廻船問屋、酒造業を営み昭和50年まで

営業していました。天明3年(1783)付近一帯を焼失させた「晒屋火事」により、全焼されましたが、直ちに再建工事に着手し同年主屋が完成

しました、文政3年(1820)には新座敷を、天保元年(1830)には酒造施設を、天保8年(1837)には迎賓施設を完成させ

現在に至っています。建物は、防火構造で白壁が美しくなっています、主屋は商家では珍しく入母屋造りです。

三上家には、1万点を越す古文書が残され、江戸時代に名主として宮津の町政に深く関わり、北前船の廻船問屋として諸国の事情に通じていました。

老中まで出す宮津藩として、なくてはならない豪商として、宮津藩の迎賓館の役割を担ってきました。

 

 

 

 

 

商店・飲食店・路地裏

お昼のおすすめ「カネマス」の七輪焼き

宮津体育館の横、寺町や三上家住宅からも近い一角にあります。お店は、20人も入ると満席になってしまうこじんまりしたお店。

営業は、午前11時半から午後3時30分(月曜休み)

夜は、2名様以上の予約で、午後6時30分~

創業明治2年の一夜干し「カネマス」で、東京で調味料会社で修行された経験を生かした若店長が2年前に始めたお店。

目の前で、七輪で焼ける一夜干しを楽しみに、お酒を味わうのもいかがですか。

今の時期、鯵、烏賊、カマスなどがおすすめとか、

お昼のセットは、ごはん、みそ汁、漬物とお好きなお魚や地鶏、野菜で1200円~

〒626-0003宮津市漁師1711  電話0772-22-3297 FAX0772-22-0369

http//www.kanemasu-taniguchi.com

http//www.rakuten.co.jp/kanemasu-taniguchi/

天橋立の新名所完成

       展望デッキ             空中またのぞき             オープンイベント

またのぞきで、有名な傘松公園。展望デッキが完成しました。みどころは、張り出した硬質ガラス製を歩くと、空中でまたのぞきができる。

迫力満点です。南京錠を柵につけると、永遠の愛が結ばれるといわれるアベックにおすすめコーナーや冷房の効いた部屋もあります。

ここでは、かさぼうの写真展をしていました。

9月11日(土).先週の台風で延期になったイベントは、FM京都の人気番組「アルファーステーション」で若手アーチストのライブや

かさぼうの登場ばど、子供たちに大人気でした。

丹後風土記には、イザナギ、イザナミが国作りをしていたところ、天に架けた梯子が倒れ天橋立になったとあります。

またのぞきをすると、あら不思議・・・天橋立が梯子に見え、神々の住む世界へあなたも行かれるかもしれません。